←その1へトップページへ戻るHotu Painu Indexへ戻る|その3へ
タヒチと仏国核実験の影響その2:The effects of French nuclear testing Vol2/Ver01●31Oct2005
1966年7月2日モルロアの南太平洋初の仏国核実験、マンガレヴァ島で何が起きたのか?
French Nuclear Tests: 30 years of lies(仏国核実験:30年間の嘘)より。

●はじめに

このコラムの原文は仏国ニュース週刊誌ヌーベル・オブセルヴァートル "Le Nouvel Observateur " に1998年2月5日〜11日号 に渡り連載された記事です。筆者であるジャーナリスト"Vincent Jauvert" (ヴァンサン・ジョベール)によって垣間見えた仏国核実験の非人道的措置の一部です。Hopuhopu@管理人は関連資料や様々なWebサイトを見歩き、補足や背景などを加えました。極力脚色にならない様配慮したつもりですが、感情的になっている部分もあるかと思います。例によって間違いや表現上不適切な箇所があれば、ご指摘をお願いいたします。

●大慌てで始まった仏国の大規模沈黙政策

"Vincent Jauvert" の文章は全て "DIRCEN" (仏国核実験センター本部)(*1)の公文書からの引用である。1997年12月1日までは要請すればヴァンセンヌ要塞で簡単に閲覧可能だったが、取材中に突然、一般人の閲覧は不可になった。何故このように「開けっぴろげ」にしていたのだろう?地球の裏側の南太平洋で行った事など、つぶさに調べて告発するような奴は居ないと考えたのだろうか?とにかく仏軍史サービスは国防相 "Alain Richard" (アラン・リシャール)(*2)の命令により、大慌てで公文書館(アーカイヴ)を閉鎖したのだ。そして1945年以後の目録の大部分が棚から消えた。筆者が閲覧を終えていたのは30年分中約半分であり(67年12月までの分まで)この告発文は後半が欠落し、不完全なものになってしまった。
*1●La Direction des centres d'expérimentations nucléaires

*2●de la Defense Alain Richard
太平洋の犠牲者:Victims in the Pacific

●隠蔽されたポリネシア人の遺伝的特性

1962年植民地アルジェリアが独立、サハラ砂漠での核実験を撤退しなければならなくなった仏国は、次の実験場に地理的に何処からも遠いモルロアとファンガタウファ環礁(*3)を選んだ。大気圏実験時危険水域とされる半径120海里内には住民は居ないはずだった。しかし周辺にはレアオ、ツレイア、プカルア、風向きによっては「死の灰」が十分到達する距離410kmにはガンビエ諸島北西のマンガレヴァがあり合計1200人の住民がいる事が判った。だとしても仏国は実験を中止にはできない。ド・ゴール大統領のNATO(北大西洋条約機構)脱退の野望(*4)を実現するため、核保有は早急に成し遂げねばならない!1965年には「核実験は清潔で安全」なる宣言も出している以上、全島民の一時的隔離など不可能だ、偉大なる仏国(*5)のメンツが潰れてしまう・・・「仏国の栄光」を核によって取り戻す(*6)
ためには、全て秘密裏に対処する必要があった。

しかし"SMSR"(軍放射線安全対策機関)(*7によって指摘されたポリネシア人の遺伝的特性は問題を増幅させた。

「地理的に孤立しており遺伝的同グループ内の婚姻が多く早婚の習慣もあり被曝リスクは高いと思われる。例えば欧州人と同じ線量の被曝でも、ポリネシア人への影響はより強くでる可能性が高い。」
首脳部の頭を悩ませる事実を打開すべく、ブレインストーミングが行われた。

「やはり島民に被曝から身を守る方法を教え、説明の後に全島民を隔離するのが最善では?」
「それは出来ない、マスコミに漏れてしまうだろう。」
「若い島民や妊婦、高齢者など、被曝の影響を受けやすい者が多い、防護はドウスル?」
「シェルターに避難させれば良い。」
「どこの?そんなものは無い。」
「では教会に入れろ、遮蔽効果はあるだろ?」

仏領ポリネシアで最も美しいカテドラルと言われている建物が核シェルター代わりとは・・・
Mangarevaのカテドラル
信じられない事実だが、当時の仏国はポリネシア周辺の気候に関して全くの無知だった。実験を成功させるための技術的な研究も、ほとんどが不完全であった。核汚染の制御などをミクロネシアでの実験経験豊富な「同盟の大兄」米国に頼ろうとしたが、当然ながら技術や情報提供を拒否されてしまう。そこで陸軍省依頼のもと "SDECE"(フランス情報局)(*8はあらゆる方面にスパイを放った。爆弾の小型化、起爆装置、トリチウム製造、気候による汚染拡散のデータ、手当たり次第に探ろうとしたが、スパイ達はFBIの返り討ちになりほぼ手ぶらで戻ることとなった。

もう悲惨な事態は避けられない・・・何のデータも根拠も無いままに手探りの状態で核実験は行われる事になってしまった。
*3●タヒチ島まで1200km、東は南米大陸まで6600km、西はニュージーランドまで4200km、北はハワイ諸島まで5000km、我国日本までは10000km

*4●シャルル・ド・ゴールは米露(ソ)二大国家による世界支配に挑戦すべく。NATOを脱退、核兵器の独自開発、西側で最初の中国承認など独自路線で米ソ等距離策をとった。

Charles De Gaulle
*5●過去ドイツに三度侵略され、さかのぼる事ナポレオンまで勝利の記憶無し、敗戦ギリギリをあじわい疲弊しきった仏国民に「泣くと強いんだぞ!」と逆ギレ小学生の根性を叩き込みたかったに違いない。

*6●わりと一般国民もそう思っているらしい。核武装賛成世論が6割を超える・・・

*7●Société Médicale de la Suisse Romande

*8●Service de Documentation Exterieure et de Contre-espionnage
フランス人は自らを偉大でない、取るに足らない民族だと思われるのは耐えられないらしい。EU内でも重要なポストにはフランス人を推す、それが無理ならフランス語のできる人材を要求する。

軍司泰史(ぐんじ・やすし)著 「シラクのフランス」岩波新書2003年
住民は何も知らされなかった。(*10)

1966年7月2日、仏領ポリネシア、マンガレヴァ島のビーチは一見いつものように穏やかだった。西風にヤシの葉はそよそよとなびき、裸の子供達は走ったり転げながら遊び回っていた。仏軍軍人たちは、そんな光景を眺めながら何も言わなかった。しかし数時間前から放射性降下物(死の灰)が風で運ばれてきていて、土壌は既に核汚染されていた。とてつもない緊急事態なのに、何故軍人達は揃って沈黙を続けたのか?仏国最初の南太平洋での大気圏核実験で住民の居る島を汚染している事を世界中に知らせるわけにはいかない・・・いわば国家的理由からだ。そうでなくても三年前に英・米・露によって部分的核実験禁止条約が締結し、大気圏爆発は禁止されていた。(ド・ゴールは聞かぬふりをしていたし、その事を語るのを厭がっていた。)
核爆発は未明に実施された。(*11) その16時間後に「巡洋艦ド・グラス」上のローレン中将は緊急警報(電報)を受信する。

「キノコ雲は予測よりも放射能が強く、高度も低い。」

風は低層、向きは南東のマンガレヴァ方向・・・23時間後には汚染の事実は決定的になる。

「大臣に通報!放射能レベルは無視できない強さにあり土壌は汚染された。早急に汚染除去方法と食料についての指示を要請する!」
モルロアの大気圏実験のキノコ雲
環礁の東北東上空 より撮影したものと思われる。
※この写真が何回目か不明です。
ローレン中将は被害調査のため科学調査船「ラ・コキーユ」派遣を極秘裏に命じたのみで情報を規制してしまう・・・実験の三日後に「ラ・コキーユ」がマンガレヴァに到着。船上には軍医ミロンが居た。彼のレポートは仏国の欺瞞、人種蔑視、不条理に溢れている。
2005年10月8日〜9日、同年7月15日に組織された、領土政府調査委員会によって初の現地調査が行われた。

マンガレヴァでは住民を集めての公聴会が行われ、CRIIRAD:Commission de Recherche et d'Information Independantes sur la Radioactivite(放射能関連情報および独立調査委員会)はモルロア周辺のマンガレヴァ、ツレイア、ハオの土壌などサンプルを持ち帰り、遂に本格的な残留放射能と潜在的な被曝健康被害について調査が始まった。

*10●マンガレヴァの公聴会での住民の発言は、公文書やこれまで伝えられて来た現地の声などと整合しており、大気圏実験がなんの前触れも無く出し抜けに行われた事を裏付けている。

*11●実験名:アルデバラン:30Kt
一説には15〜20ktとなっているが真相は不明。
●フィリップ・ミロン医師の報告書(2〜10 july 1966)
7月5日:放射能の影響(測定結果)はガンビエ諸島北部で釣り上げた魚(主に胃の内容物)とプランクトンにはっきりと現れている。(*12)

7月6日:ラ・コキーユは
リキテア(*13)港に到着。朝、 現地の野菜、フルーツ、飲料水の放射能測定。

・洗っていないサラダ1グラムあたり・18000ピコキュリー

※これは事故当日のチェルノブイリ原発周辺のレタスの汚染水準に相当。

・洗ったサラダ1グラムあたりでは5000ピコキュリー。
・飲料水は通常環境の6倍の数値

7月8日:12時間大雨が続く。

・雨上がりの土壌1グラムあたり・1400ピコキュリー(依然高いレベル)
・リキテアの洗っていないサラダ1グラムあたり・1700ピコキュリーへ降下
タク(*14)の洗っていないサラダ1グラムあたり・4000ピコキュリー
・魚の肉が著しく汚染されているのは(目視では)決して判別不可能。しかしながら、これは所見であり今後さらなる検査が必要である。

※核汚染の事実は明確なのに住民に対しては依然なにも知らせない。

島民の心理的兆候

1) 地元住民は全く気づかなくて呑気であり、好奇心を示さず。

2) ダニエル神父(マンガレヴァ在住)の興味は次の旅行であり、放射性降下物質に関する興味は全く持っていない。

3)地元警察官は何かを疑っていたが我々の存在で安心したようだ。彼はとても忠実で組みし易い。

4)他のポパ(現地在住の白人を指すタヒチ語)もまた同様である。
看護婦や農夫は、少しの関心も示さないし質問しない。

5)タクに拠点を置く軍は核実験に関して知っている、しかし彼らの大部分は放射能レベルの高さを意識していない。

6)現地担当官は住民の事を気にかけている。ホテルではビン詰めの水を飲んでいるが、現地の野菜は食べている。

概要:今の所情報が漏出する事はなさそうだ。

軍隊機構の状況

1)ボランティア担当は、 補助スタッフ(アシスタント、会計士または事務員)が全く居ないため。あまりに多くの仕事に対処することができない状態。彼の時間の大部分は、暗号メッセージのコード化、解読、管理案件に費やされている。彼の能力に対して業務が重すぎで、彼自身も認めている。

2)"SMSR"(軍放射線安全対策機関)のキャプテンは完全な対処をした。彼は放射能汚染が高レベルの場合にとるべき安全対策の不足を嘆くだけ。(彼の)正直な性格は「素足で歩いて、地面で遊ぶ村の子供の健康を心配している。」

3) 士官クラスの軍人は静かな状態で彼らの義務を実行している。

 今後の(実験に際して)提案

1)放射能の総量の査定は、8月作成しGOEN(核実験オペレーションチーム)に提出するべき。

2)リキテア村のカテドラル付近に食料貯蔵庫と、気密性のある70立方mほどの飲料水槽二つを備えたシェルターの建設(*15)
*12●海上に降り注いだ放射性降下物質(死の灰)はまずプランクトンなどに取り込まれ、食物連鎖に伴い濃縮されていく。(生物濃縮)肉食の魚の胃袋に放射能は集まっていき、それを釣り上げ食べた人体の中に留まり、体内被曝を起こし着実に健康を蝕んで行く。

*13●マンガレヴァ島の主村

*14●マンガレヴァ島北部の村、仏軍が駐留。トーチカが建造されている。

*15●実験時にシェルターすら無かった事を裏付けている
●マンガレヴァの証言
2005年10月12日:タヒチプレスより
公聴会開催
調査委員会委員長

Tea Hirshon氏
同席:CRIIRAD:Commission de Recherche et d'Information Independantes sur la Radioactivite(放射能に関する情報および独立調査のための委員会)メンバー↓
この証言は仏軍の監視下で無く「自由に発言できた」とても貴重な声です。管理人も知った時は驚きましたが、実験の施行される二年前1964年にはパペエテには独裁警察がつくられていました。名前は単なる「研究局」でしたが・・・「住民は絶えず密告され、検閲は定期化されていた。」そうで「核実験についての発言」などできるはずも無い状態だったのです。タヒチ裏側では冷戦時の共産圏のような重苦しい空気が流れていたのでしょうか?
・最初の実験時(コード名:アルデバラン:1966年7月2日大気圏実験)は避難所(シェルター)も無かった。

・重要な仏軍高官が来た、歓迎の食事を沢山用意したのに実験が実施されると素早く飛行機で帰ってしまい、仕方なく食事はゲスト不在で食べた。

・爆発が起きた時は頭上でとても大きな轟音がした。
・難聴の子供が生まれた(実験後に出産した女性)

・魚が食べられなくなった、シガテラのせいもあるが核実験も関係しているのかも。
↑公聴会で核実験の様子を語るマンガレヴァ住民達。
・軍からは(実験について)なにも知らされなかった
・実験の後、軍関係者は(マンガレヴァで採れた)野菜を買わず、パペエテから持ってきていた。

・家族が(理由は明かされず)しばしばハオへ送られた。(注:ハオには補給基地があります。)

パペエテに送れば良かった。
・初の実験後にシェルターが作られたが、もうボロボロで軍が取り壊してくれれば良かった。

・(当時14歳の女性)三日三晩シェルターに入っていた事がある。映画を見たり食事が振る舞われた。実験後シェルターの屋根を水で洗い流していた、その後家に帰った。
●シェルターは粗末な小屋

翌8月マンガレヴァ、ツレイア、レアオ環礁にひっそりと避難シェルターが建設された、サハラ砂漠で軍隊が使用していた「亀の子」と呼ばれるブロック小屋(格納庫)の転用であった。しかしかえって住民の不安を煽る結果となった。「亀の子はワナ」で、中に閉じ込められて殺されるという噂が立ったためだ。結局シェルターはあまり使われる事は無かった。それ以前にあまりにも祖末な小屋で気密性が全く不十分だった。
↑現存するシェルター
Ver01はここまでです。2005年10月末までに、思いもよらず沢山の情報が入ってきています。そのため、予定より大幅な加筆や資料集めが必要になりました。今後も区切りの良い部分でどんどんアップしていくつもりですが、例によってタヒチ時間での待ちをお願いします。
2005年10月31日 Hopuhopu@管理人
←その1へトップページへ戻るHotu Painu Indexへ戻る|その3へ